大阪の橋
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「大阪」の呼称
大阪の古い呼称に「なにわ」がある。難波、浪速、浪華、浪花とさまざまな文字があてられるが、日本書記をはじめ、古事記、風土記など古代の書物では「難波」という文字が最も多く用いられており、これが江戸時代になると「浪華」、「浪花」が一般的に使われるようになる。一方「おおさか」が文献に登場するのは室町時代以降と考えられ、「さか」の文字には「坂」が長く用いられてきた。これが現在の「阪」になるのは明治になってからのことである。
大阪の橋
水の都大阪には古来多くの橋が架けられ、《なにわ八百八橋》とうたわれるほどですが、大阪の橋の歴史をひも解くと、今からおよそ1500年前の仁徳天皇14年に「猪甘津に橋為す」「號けて小橋と曰ふ」と日本書紀に記されています(現在の生野区には猪飼野、小橋という地名が残っている)。その後四天王寺の建立、難波宮の造営、大坂築城などを契機に大阪のまちづくりが進められましたが、特に天下の台所として栄えた江戸時代には多くの堀割(運河)が開削されて、夥しい数の橋が架けられました。この頃になると橋は日々の暮らしに欠くことのできない施設として、人びとに使われ、愛され、親しまれていったのです。大阪を舞台にした浄瑠璃や大阪の名所を描いた錦絵に頻繁に橋が登場するのも当然と言えるでしょう。また、河川の埋め立てなどによってなくなってしまった橋の名前が、駅名や地名として今もたくさん使われていることは、大阪の人びとにとって橋が特別の意味を持つものであることを示していると言えます。
大阪市では、大阪の代名詞とも言える橋を通じて、多くの人びとに大阪の歴史、大阪の文化への理解を深めていただくことを願って、「橋梁顕彰碑」の設置を進めています。大阪市民はもとより、大阪市で働き、学んでいる方々、そして仕事や観光で大阪に来られた方々にも、気軽に顕彰碑を見ていただけるようにと作成したものです。このHPでチェックして町へ出てみませんか。今まで知らなかった大阪が発見できるかもしれません。
大阪の橋
A
この辺りは古代には難波津と呼ばれ、遣唐便船などが発着する日本の表玄関であった。7世紀に難波宮が置かれ上町台地上に発達した大阪のまちは、豊臣時代以降徐々に西へ開発され、まちの北を流れる大川こは、大阪から西国へ通じるルートとして古くから橋が架けられていたと考えられている。江戸時代になると市街地は本格的に北へと広がり、大川を渡るこの3つの橋は特に重要な橋として公儀橋に指定され、幕府の直轄管理となった。長さはどれも200m以上、幅も7m前後と、当暗としては最大級の規模であったことからr浪華の三大橋」と称され、大阪を代表的する橋として人びとに親しまれた。長大橋の多くなった現在でも、広々とした水面と岸辺の豊かな緑に映える三大橋の姿は名橋の名に恥じない風格がある。昭和10年に架けられた天満橋は同45年に上層部分が加えられた2層の鋼桁橋、天神橋は昭和9年完成のスケールの大きな鋼アーチ橋、そして難波橋は大正4年完成当時の中央のコンクリート・アーチ橋と昭和50年に架け換えられた両側の鋼桁橋(形は架け替え前のアーチ形を継承)と、それぞれの個性美を見せてくれている。
交通 京阪、地下鉄天満橋駅下車(天満橋)、北浜駅下車(天神橋、難波橋)
お勧めコ一ス 天満橋の駅から地上に出て2階建てになった橋を渡る。下流側(西)を望むと天神橋が美しいアーチを描いているのが見える。北詰東側の支番の横から公園に入ると、川を背にして明治時代の天満橋の橋名額(右の写真「鉄橋になった天満橋」に見える)が据えられている。川岸へ降りて桜並木を下流(西)の方へ歩くこと10分足らずで天神橋北詰に看く(西側に明治時代の橋名額が置かれている)。橋を南へ渡って橋詰西側の碑を見たあと再び橋へ戻り、中央にある階段を中之島公園へ降りる。グラウンドの向こうに男える高速道路の下をくぐり、太鼓橋になった「ばらぞの橋」の上に立つと19世紀のヨーロッパを思わせるクラシックな難波橋が目に入る。難波橋の中央に作られた見晴らしのいいバルコニーこは、陶板画をはめこんだ顕彰碑がある。なお天満、天神両橋の橋名額は天満宮境内にある池のほとりにも保管されている。
旧天神橋の橋名額
難波橋のバルコニー
淀屋橋
最初の橋は、江戸暗代の豪商 淀屋が私財を投じて架けたと伝えられる。現在の橋は昭和10年に御堂筋の建設に伴い架けられたコンクリート・アーチ橋。中之島を挟んで北側にある大江橋と同じ石造りの重厚な意匠は、士木構造物には珍しく懸賞募集が行われ、その最優秀作品をもとに設計されたもの。橋の南詰西側には宮本又次氏の碑文を刻んだ「淀屋の碑」が、北詰の日本銀行正面には「淀屋橋・大江橋・欄干復元」の碑が据えられている。
交通 京阪、地下鉄淀屋橋駅下車すぐ
B
大坂橋
大正14年、東横堀川凌喋の際に「大坂橋」の銘がある大きな擬宝珠が見つかった。擬宝珠の立派さから見て高麗橋に匹敵する規模で、大坂築城と深い関わりがあったと想像されるが、この名の橋はどの文献にも見当たらず、どこに架かっていたものか今も謎に包まれている。この大坂橋の名をとった橋が、昭和48年に毛馬桜之宮公園と大阪城公園を結ぶ歩行ルートとして建設された。構造は、大阪城天守閣を望む景観に配慮して「頬杖ラーメン」と呼ばれる大阪市内では例の少ない形式が採用された。また、2つの公園を結ぶ歩行者専用橋ということから、橋上にはウバメガシやカイヅカイブキなどの植栽が施されている。
交通 JR大阪城北詰駅下車、西へ500m又は京阪、地下鉄天満橋駅下車、東へ500m
新鴫野橋
大阪城天守閣を望む新鴫野橋
大阪城と大阪ビジネスパーク(OBP)の間に架けられている橋で、江戸時代には公儀橋であった「鴫野橋」の架かっていたところである。江戸時代は大阪城内の一部であり、明治以降第2次世界大戦が終わるまで軍の施設であったため数百年間一般の利用は許されなかったが、現在は高欄も擬宝珠のついたものに取り替えられ、大阪城への入口の一つとして主に歩行者と自転車に利用されている。顕彰碑は北詰東側にある。
交通 地下鉄大阪ビジネスパーク駅下車すぐ、京橋駅からはOBPの中を通って800m
お勧めコース 天満橋北詰から大川端を上流へ歩き、川崎橋を渡る。公園を出て京阪電車の地下道をくぐると大坂橋。橋を渡ってすぐ左に折れ、公園の中を外堀に沿って歩く。大阪城ホールの手前を左に曲がると新鴫野橋に出る。
野田橋
旧鯰江川に架かっていた橋で、江戸時代には京街道の入口にあたるため交通上重要な橋で、公儀橋に指定されていた。川は昭和5~6年の寝屋川の改修に伴い埋め立てられ、橋は撤去された。現在、昭和13年に建てられた碑が京阪高架の南側にある。
交通 JR大阪城北詰駅下車すぐ、京橋駅からは京阪の高架沿いを西へ500m
黒門橋
黒門橋は、宝永8年(1711年)猫間川に架けられた橋で、たもとには、明治の中ごろまでくらがりごえ奈良街道を挟んで2軒の茶店があり、俗に「二軒茶屋」と呼ばれ繁盛したという。現在は橋の姿を見ることはできないが、道路の南側歩道に「二軒茶屋」の碑とともに顕彰碑が設置されている。
交通 JR、地下鉄玉造駅下車すぐ
玉津橋
暗越奈良街道が平野川を渡るところに架けられた橋。現在の橋の高欄に奈良街道の古地図がはめ込まれている。
交通 JR、地下鉄玉造駅下車、東へ600m、市バスを利用する場合は、玉造駅又は地下鉄今里駅から幹22に乗り、中本4丁目下車、西へ70m
緑橋
旧千間川に架かっていた緑橋は、木造の緑色の橋であった。それが現在の地名として残っている。顕彰碑は支差点東側、緑道の入口に立っている。
交通 地下鉄緑橋駅下車、北へ70m
柳橋・榎木橋
蛇行が著しかった旧平野川の流路の跡を現在の道路に見ることができる。その近くに当時架かっていた柳橋と榎木橋の親柱が残されている。
交通 JR、近鉄、地下鉄鶴橋駅下、千日前通を東へ300m、大きな変差点を右へ150m、鶴橋交番の前に柳橋の親柱が、そこから170m東の四辻を南へ行くと、小さな社の前に榎木橋の親柱がある。
つるのはし
はじめに紹介した日本書紀にある「小橋」がこれにあたると考えられている。とすれば、文献に登場する日本最古の橋がこの辺りに架かっていたことになる。地理的には上町台地を東へ下ったところ、古代には旧平野川の河口港「猪甘津」があった辺りと考えられる。「つるのはし」は、鶴が多く飛来したからとも言われ、また「津のはし」がなまったからとも言われる。現在、「つるの橋公園」の中に明治時代のものと思われる親柱と由来を記した碑などが建てられている。
交通 JR桃谷駅下車、商店街を東へ500m、信号を渡ったガソリンスタンドの東側
猪飼野新橋
橋には、前方後円墳形の親柱と勾玉形の束柱を持つ高欄を設置し、5世紀から発達したこの地域(猪甘津)の歴史を表わしている。
交通 地下鉄今里駅下車、南へ1km、市バスを利用する場合は、同駅から幹13、幹85、幹85A、幹35、幹18に乗り中川西公園前下車、西へ250m
大阪の橋
C
昔の大阪のまちでは、東横堀川と西横堀川に挟まれた区域のうち、長堀川より北を「船場」、それより南、道頓堀川までを「島之内」と呼んでいた。
高麗橋の高欄
高麗橋
慶長9年(1604)に立派な擬宝珠を持つ橋として架けられた高麗橋は、江戸時代12あった公儀橋(幕府直轄管理の橋)の中でも特に重要視され、西詰には幕府の高札(公報板)が立てられたほか、西日本各地への街道の起点とされ、明治9年に道路の制度が敷かれてからはこれを表す里程元標が置かれた。その跡を示す碑が東詰北側に立っている。また、明治3年に大阪で最初の鉄橋として架設されたことも、大阪の橋の中での高麗橋の地位を示しているといえる。顕彰碑は里程元標碑横の橋詰広場の中に設置されている。なお、慶長9年当時の擬宝珠が大阪城天守閣に保管されている。
交通 京阪、地下鉄北浜駅下車、東へ300m
本町橋
現在の本町橋
本町橋は豊臣時代にはすでにあったことが記録に残っており、江戸時代には公儀橋の一つになっていた。大正2年に架けられた現在の橋は現存する大阪の橋の中で最も古く、華麗な石の彫刻で飾られた橋脚を持つ堂々たるアーチ橋である。顕彰碑は西詰南側にある。
交通 地下鉄堺筋本町駅下車、東へ300m
今橋
今橋は大坂の陣を表した絵図などにその名が見られることから、豊臣時代にはすでに架けられていたと推定される。江戸時代に入ると、今橋から西は鴻池をはじめ大きな両替商が軒を連ね、日本の金融センターになるほどの発展をとげた。顕彰碑は西詰北側の高欄に設置されている。
交通 京阪、地下鉄北浜駅下車、今橋から南へ300m
大手橋
大手橋は大阪城の正面、大手門に通じる道路に架かっている。江戸時代、この橋は思案橋とも呼ばれたが、それは西詰がT字路になっているために東から橋を渡ってきた人が北へ行こうか南へ行こうか思案したためという説がある。東詰南側に顕彰碑が立っている。
交通 京阪、地下鉄北浜駅下車、今橋から南へ300m
農人橋・久宝寺橋
農人橋もまた江戸期には公儀橋として重要な橋であったが、その名が示すようにそれ以前は農民が利用する粗末な橋であったらしい。顕彰碑は東詰南側にある。久宝寺橋の名の由来は、近くに久宝寺という寺があったからとも言い、東横堀開削の際、河内の久宝寺(現在の八尾市)から来た工事関係者がこの辺りに住み着いたからとも言う。顕彰碑は東詰北側にある。
交通 地下鉄堺筋本町駅下車、中央大通を東へ300mで農人橋、さらに南へ300m行くと久宝寺橋
九之助橋・瓦屋橋
九之助橋の名は、この橋と何らかの関係がある人の名前からきているとも思われるが詳しいことは分からない。現在の照明灯は大正時代の姿をもとにデザインしたもの。また、西詰にあった住友銅吹所(銅の精錬所)にちなんで高欄に精錬風景を表現したパネルがはめ込まれている。顕彰碑は西詰南側にある。瓦屋橋の東詰一帯は、江戸時代幕府の御用瓦師寺島藤右衛門の請地であり、瓦の生産が盛んであった。このことから、瓦屋橋の高欄と親柱は瓦をモチーフにしたデザインとなっている。顕彰碑は北側の高樹にはめ込まれている。
交通 地下鉄松屋町駅下車、南へ200m(九之助橋)、500m(瓦屋橋)
安綿橋・板屋橋・長堀橋
長堀川は江戸初期の元和8年に完成したと伝えられる。沿岸にはさまざまな産業が立地し、長堀川は輸送の大動脈であった。安綿橋の名は、南組の総年寄安井九兵衛と綿屋某が協カして架けたことに由来すると言われている。板屋橋は元禄のころには新橋と呼ばれ、板屋橋となったのは幕末のころからである。長堀橋は紀州街道に架かっていた重要な橋で公儀橋の一つであった。これらの橋は、昭和39年に完了した長堀川の埋め立てとともに姿を消し、長堀橋は交差点の北東角の植込みに、他の2橋は長堀通の南側歩道に、それぞれ顕彰碑が立っている。
交通 地下鉄松屋町駅、長堀橋駅下車すぐ
佐野屋橋・中橋
江戸時代、佐野屋橋から西は大坂屋の浜と呼ばれ、大坂屋久左衛門の銅吹き工房があった。中橋は長堀橋と心斎橋の中間にあったことからこの名前がつけられた。佐野屋橋の顕彰碑が南側歩道の植樹帯の中に、中橋の親柱が中央分離帯の中にそれぞれ据えられている。
交通 地下鉄心斎橋駅下車すぐ(佐野屋橋)、東へ200m(中橋)
心斎橋
石造りアーチの心斎橋
最初の心斎橋は長堀川の開削とほぼ同時期の元和8年(1622)に美濃屋岡田心斎によって架けられたという説が有カである。明治6年にドイツから輸入された鉄製弓形トラス橋に架け換えられたが、同42年にヨーロッパ風の石造りアーチ橋にかわり、昭和39年に長堀川が埋め立てられるまで優雅な姿を見せていた。橋は撤去されたが、大阪の象徴でもあった心斎橋を残そうという声が強く、横断歩道橋の上部に石の高欄とガス灯が復元されていた。その後長堀通の整備に併せて地下街の入り口付近にその一部が移設、保存されている。また、明治6年に架けられた鉄橋は鶴見緑地の中に、緑地西橋として形態保存されている。顕彰碑は南側歩道の東側に設置されている。
交通 地下鉄心斎橋駅下車すぐ
四つ橋
整備された四つ橋跡
旧西横堀川と旧長堀川が十字に交差する地点に井げた状に4つの橋が架かっていた。北側から時計回りに上繋橋、炭屋橋、下繋橋、吉野屋橋であるが、一般にはまとめて「四つ橋」と呼ばれている。大坂の名所の一つとして人びとに親しまれ、「涼しさに四つ橋を四つ渡りけり」(小西来山)など、俳旬の題材にもよく用いられた。現在、四つ橋交差点の東側中央分離帯には昔の姿を偲ぶ橋の欄干と顕彰碑が設置されており、高速道路を挟んで東側には小西来山と上島鬼貫の旬碑が据えられている。
交通 地下鉄四つ橋駅下車すぐ
筋違橋・信濃橋・新町橋
旧西横堀川は慶長5年(1600)に長瀬七郎右衛門によって開削されたと伝えられる。江戸暗代のはじめ、西横堀と江戸堀の分岐点に撞木橋という丁字形をした珍しい橋が架かっていたが、後に斜めの橋に架け替えられて筋違橋と名づけられた。信濃橋は古くは富田町橋、その後は問橋と呼ばれていた。新町橋は寛文12年(1672)に架けられ、瓢箪町の入口にあったことから「ひょうたん橋」とも呼ばれた。付近には遊郭や道頓堀の繁華街があり、橋の上まで夜店が並ぶなど大いに賑わったという。これらの橋は昭和39年から46年にかけて行われた西横堀川の埋め立てで姿を消した。顕彰碑はそれぞれの橋の親柱とともに架橋位置に設置されている。
交通 地下鉄肥後橋駅下車(筋違橋)、本町駅下車(信濃橋、新町橋)
戎橋
心斎橋から南へ700m、道頓堀に架けられた橋が戎橋である。今宮戎に通じる橋であるところからこの名がついたとも言われる。大正14年に架けられた現在の橋は、当時の川幅36メートルを一気に跨ぐ美しい石張りのコンクリート・アーチ橋である。昼からタ方にかけては観光客で、夜から朝までは若者たちで人影の絶えることがない。南側の東西道路は一般に「道頓堀」と呼ばれ、江戸時代は芝居小屋の立ち並ぶ一大興行街であった。今も近くにメッカ松竹座があり、橋のたもとには「船乗り込み」に使われる船着場がある。北詰西側には歌舞伎をモチーフにした顕彰碑が設置されている。
交通 近鉄、地下鉄難波駅下車、北へ100m
大黒橋
木津の大黒神社の参道にあたるところからこの名がある。昭和5年完成の現在の橋は河川浄化用の可動堰を併設した珍しい橋である。顕彰碑は南詰にある。
交通 近鉄、地下鉄難波駅下、北西200m
相合橋
相合橋は道頓堀川に架かる他の橋に比べやや遅く、1680年代に架けられた。当時は新中橋あるいは中橋と呼ばれており、後に椙含橋となった。昭和58年に川の上の憩いの場として整備された。顕彰碑は橋上の西側に設置されている。また。北詰には食満南北の旬碑が据えられている。
交通 近鉄、地下鉄日本橋駅下車、北西へ300m
日本橋・下大和橋
日本橋は江戸時代には重要な道の一つであった紀州街道に架かる公儀橋であった。明治10年に鉄橋化されたことからもその重要性がうかがえる。現在の橋は地下鉄建設に伴い、昭和44年に架け換えられたもので、高欄の桝形のパネルは画家のデザインによるものである。顕彰碑は北詰東側にある。下大和橋は正徳5年(1715)に初演された近松門左衛門の「生玉心中」の一場面となっており、そこでは「大和橋」と表現されていた。現在の橋は昭和55年に架けられ、橋面及び橋詰が整備された。北詰東側の広場に先代の親柱と顕彰碑が設置されている。
交通 近鉄、地下鉄日本橋駅下車、北へ200mで日本橋、そこから東へ300m行くと下大和橋
大阪の橋
D
雪鯨橋
宝暦6年(1756)、東淀川区にある瑞光寺と紀州太地との関わりから、高欄の骨を便った珍しい橋がつくられた。現在の高欄は昭和49年に太地町の協力でつくられたもので、5代目になるという。
交通 阪急上新庄駅下車、東南へ300m、瑞光寺境内
三国橋
旧能勢街道が神崎川を渡る地点で、吉くから渡し場のあったところ。橋が架かったのは明治になってからで、現在の橋は昭和36年に完成。顕彰碑は南詰め西側にある。
交通 阪急三国駅下車、北へ100m
神崎橋
旧中国街道が神崎川を渡るところで、吉くは神崎の渡しがあった。昭和28年に架けられた先代の橋は、わが国で最初の合成桁橋であった。現在、橋の高欄には弥生時代から古墳時代にかけて用いられた直弧文の文様が用いられている。顕彰碑は東詰南側の歩道内にある。
交通 JR加島駅下車、北西へ800mまたは阪急十三駅から市バス(幹97)で神崎橋下車、西へ250m
長柄橋
古代の大阪は淀川と大和川の河口が1箇所に集まっていたため洪水が頻繁に起こった。ちょうどその辺りにあったと言われる長柄橋は、架けても架けても流されたため悲しい「人柱」伝説が生まれることになった。そうした説話の主人公である「巌氏」の碑がJR東淀川駅近くの大願寺に立っている。長柄橋が現在の場所に架けられたのは、大阪を洪水から守るために行われた新淀川(現在の淀川)の開削工事の後、明治42年のことである。その後昭和11年に近代橋に架け換えられたが、第二次世界大戦末期に直撃弾を受けて橋桁が損傷、多数の犠牲者が出た。南詰東側にはこれを供養するための観音像が建てられ、当時の弾痕が残されている。現在の長柄橋は昭和58年に架け換えられたもので、南詰の親柱には橋の由来を、北詰の親柱には古今集の和歌二首が刻まれている。また北詰東側の堤防上に明治42年当時の親柱が残されている。
交通 地下鉄天神橋筋6丁目駅下車、北へ900m、市バス(幹37、特27)長柄橋南詰停留所下車すぐ
毛馬橋・春風橋
毛馬橋は、京街道へ通じる道筋にあたり、古くから渡し場が置かれていた。ここに橋が架けられたのは大正になってからで、その時の竣功記念碑が東詰北側に、顕彰碑が東詰南側に設置されている。毛馬桜之宮公園内の城北川に架かる春風橋は昭和53年完成の自転車歩行者専用橋で、毛馬で生まれた俳人与謝蕪村の旬『春風や堤長うして家遠し』から名づけられた。親柱に刻まれた文字は蕪村の筆跡を複写したもの。
交通 地下鉄都島駅下車、都島工業高校の前を通り、大川の東岸を北へ(1km)
豊里大橋
大阪市で始めての本格的な斜張橋として昭和45年に架けられた豊里大橋は、それまでは「平田の渡し」のあったところ。この渡しは元禄時代にはすでにあったとされる歴史の古い渡しであった。北詰西側と南詰東側に同じ内容顕彰碑が設置されている。
交通 地下鉄太子橋今市駅下車、北へ400m 京阪土居駅下車、北へ600m
十三大橋
旧中国街道が旧中津川を渡る地点にあたり、古くから渡し場があった。現在の橋は昭和7年完成。中央部には重厚なアーチ橋が5つ連なり、淀川を渡る幹線道路にふさわしい雄大な景観をつくっている。顕彰碑は北詰東側にある。
交通 阪急十三駅下車、南へ500m、又は中津駅下車、北へ500m
緑地西橋・古市橋
旧心斎橋を保存した緑地西橋
緑地西橋は、花博記念公園・鶴見緑地内に架かる橋で、1990年に開かれた国際花と緑の博覧会の会期中は京阪関目駅からの歩行者ルートとして利用された。この橋には、橋の本体とは別に両外側にトラスが架けられているが、これは旧心斎橋を形態保菅するためにここに移されたものである。古市橋は、昭和初期に開削された城北運河に架けられた橋で、旧京街道の道筋にあたる。顕彰碑は東側の高樹にはめこまれている。
交通 地下鉄鶴見緑地駅下車、公園内を西へ1km(緑地西橋)、京阪森小路駅下車、西へ100m(古市橋)
大阪の橋
E
安治川橋・極楽橋
明治初年の安治川橋(神戸市立博物館蔵)
安治川橋は元禄11年(1698)にはじめて架けられた。明治に入るとこの辺り一帯は外国人居留地として、洋館が建てられ舖装運路も建設されて大阪の文明開化の拠点となった。明治6年に架けられた橋はマストの高い船が通れるように一部が旋回橋になっていたため、回転の際の動きを貝て当時の人は「磁石橋」と呼んだという。この橋は明治18年の大洪水のときに通水のために爆破され、その後木橋として復活したが、それも明治末期ごろにはなくなってしまった。その後ここには橋は架けられず、西区側に顕彰碑が建てられている。福島区玉川4丁目、あさひ銀行の北東角に「極楽橋遺趾」と書かれた大きな石碑が立っている。極楽橋は旧野田村の水路に架かっていた橋と思われるが、詳しいことはよく分からない。
交通 安治川橋は地下鉄阿波座駅下車、西北へ500m。極楽橋は地下鉄玉川駅下車すぐ
木津川橋・松島橋
木津川橋は慶応4年(1868)に架けられたとき大橋と呼ばれていた。大正2年、市電事業により本町通がつくられたときに立派なアーチ橋になった高潮対策事業で昭和41年に架け換えられ、現在に至っている。先代のアーチ橋のデザインは今の橋(東横堀川)に見ることができる。顕彰碑は北側に設置されている。かつて松島橋の辺りは樹齢300年といわれる名松あったことから松島の地名がつけられた。明治に入って木津川の渡しを廃止し、松島橋が架けられた。西詰の公園内に入るとすぐ北側に顕彰碑がある。
交通 木津川橋は地下鉄阿波座駅から北西へ300。松島橋は地下鉄西長堀駅から西へ500m
大正橋
旧大正橋は、工業地帯として急速に発展していた大正区と旧市内とを結ぶ幹線道路として、大正4年に始めて架けられた。支間長90mという当時日本で最大のアーチ橋であったが、設計基準の確立されない時代に設計されたということもあって傷みが激しく、都市計画道路の拡幅を機に下流側に新しい橋が架けられ、昭和46年に撤去された。その後上流側への拡幅が行われ、昭和52年に現在の姿になった。東詰北側には小広揚が整備されたが、その中には安政2年(1855)に、前年大坂を襲った大津波の模様を記録した大きな碑が建てられている。
交通 JR、地下鉄大正駅下車、北へ200m、地下阪ドーム前千代崎駅下車、南へ200m
雑喉場橋
雑喉場橋のあった辺りは、江戸時代には雑喉場の魚市と呼ばれ、大坂三大市場の一つとして大坂人の台所をまかなっていたが、昭和6年に中央卸売市場の開設によりその歴史を閉じた。本町通北側歩道には、顕彰碑とともに大正11年に改築されたときの親柱と当時の照明灯が復元されている。
交通 地下鉄阿波座駅下車、北西へ200m
永代橋・門樋橋
永代橋は海部堀川開削当時からあり、干魚の荷揚げ場や市場で賑わっていた永代浜に通じる歴史ある橋であった。門樋橋ははじめは通常の橋ではなく門樋(水門)であった名残が橋名になっている。これらの橋も昭和26年に海部掘川が埋め立てられると同晴に撤去された。現在、なにわ筋の東側歩道に2つの橋の顕彰碑が設置されている。
交通 地下鉄本町駅下車、西へ350m
明治橋
旧立売堀川に架かっていた明治橋の名は、明治9年に架けられたことに由来している。高欄こは「みおつくし」に蕨文の文様をあしらった当時としては珍しいデザイン。昭和31年に立売堀川の埋め立てと同時に撤去された。なにわ筋の西側歩道に顕彰碑が設置されている。
交通 地下鉄西大橋駅下車、北へ400m
住吉大社 反橋
住吉大社の境内、社殿前の池に架かる橋。反りの大きな太鼓橋で池の面に映る朱塗りの欄干が美しい。橋の東南には川端康成の短編「反橋」にちなんだ文学碑が建てられている。
交通 南海住吉大社駅下車、東へ100m、又は阪堺電車住吉鳥居前駅下車すぐ
姫松橋・御祓橋・大和橋
姫松橋が架かる辺りは、美しい松原の海岸だったところで、江戸時代中ごろに新田開発のため埋め立てられ川として残った。現在の橋は昭和60年架け替えられたもの。北詰西側に顕彰碑がある。旧紀州街道に架かる御祓橋は、住吉大社の祭りにちなんで名づけられたと伝えられる。顕彰碑は北詰東側に設置されている。大和橋は、今の大和川が開削された宝永元年(1704)、紀州街道に架けられた公儀橋で、江戸時代、大和川にはこの橋しかなかった。現在の橋は昭和49年に完成した斜張橋。顕彰碑は北詰西側にある。
交通 姫松橋は地下鉄住之江公園駅から市バス(幹48)で姫松橋下車すぐ。御祓橋は阪堺電車細井川駅下車すぐ。大和橋は阪堺電車我孫子道駅下車、紀州街道を南へ400m
楯原橋・緑橋
この辺りは古代には百済郡と呼ばれ、朝鮮からの渡来人が定住し、日本へ先進的な仏教文化が伝えられたところ。両橋には百済の象徴である百済瓦の文様をデザインに取り入れて、歴史を顕彰している。楯原橋には単弁の軒丸瓦の文様を高欄のデザインに便用し、花弁模様の舖装を施している。緑橋(写真)には軒丸瓦を模した円板が高欄に取り付けられている。
交通 天王寺駅から市バス(特6)で湯里5丁目下車、東へ200m、又は近鉄針中野駅下車、東南へ800m